1,1,2-トリクロロエタンのマウスを用いる小核試験

Micronucleus Test of 1,1,2-Trichloroethane in Mice

要約

1,1,2-トリクロロエタンは,溶剤,塩化ビニリデンの原料,粘着剤やラッカーなどの生産に用いられている有機塩素化合物である.今回,OECD既存化学物質安全性点検等に係わる毒性調査の一環として,1,1,2-トリクロロエタンの生体内における細胞遺伝学的影響を調べるために,マウスの骨髄細胞を用いる小核試験を実施した.毒性予備試験の結果に基づいて,CD-1(ICR)雄マウスに1,1,2-トリクロロエタンの100,200および400 mg/kgをそれぞれ単回経口投与し,投与後24および48時間に骨髄の塗抹標本を作製した.標本観察の結果,1,1,2-トリクロロエタンの投与により小核出現頻度が増加する傾向は認められなかったが,全赤血球中に占める幼若赤血球の比率は,400 mg/kg投与群において低下した.

以上の結果から,本試験条件下では,1,1,2-トリクロロエタンはマウスの骨髄細胞において染色体異常誘発作用あるいは紡錘体形成阻害作用を示さないが,骨髄細胞に対する増殖抑制作用を示すと考えられる.

方法

1. 被験物質

試験には,シグマアルドリッチジャパン(株)(東京)から購入した純度97.5 %(不純物:不明,安定化剤:2-プロパノール約0.5 %含有)の1,1,2-トリクロロエタン(ロット番号:01404MQ)を使用した.入手した被験物質は,室温保管した.

媒体は,被験物質が水に不溶のため,オリブ油を選択した.投与検体は,投与前日に被験物質を秤量し,日局オリブ油(製造番号:1110,丸石製薬(株))に溶解して調製し,室温,遮光条件で気密容器に保管した後,投与に用いた.6および0.2 %の調製検体については,室温,遮光条件下で2日間の安定性が確認された.なお,各濃度の投与検体について被験物質の含量を測定した結果,平均含量が調製指示値の90.0〜110 %の範囲内にあることが確認された.

2. 使用動物および飼育方法

実験には,日本チャールス・リバー(株)から購入した8週齢のICR系マウス(Crj:CD-1(ICR),SPF)を,入荷日を含む7日間,検疫と馴化を兼ねて飼育した後,9週齢で試験に供した.

動物は,全飼育期間を通じて,許容温度:21.0〜25.0 ℃,許容湿度:40.0〜75.0 %,換気回数:約15回/時間,照明12時間(7時〜19時)に設定された飼育室内で,床敷として木製チップ(ホワイトフレーク,日本チャールス・リバー(株))を入れたTPX樹脂製ケージに1匹ずつ収容し,固型飼料(CE-2,日本クレア(株))と水道水(秦野市水道局給水)を自由摂取させて飼育した.

3. 投与量の設定および投与方法

投与量は,毒性予備試験の結果に基づいて決定した.すなわち,マウスを用いた経口投与による急性毒性試験において,LD50値が378 mg/kgであることが報告されていることから1),被験物質の100,200,400および600 mg/kgを各群5匹の雌雄マウスに単回経口投与した.その結果,投与後1時間の観察では,自発運動低下が 400 mg/kg以上の投与群の雄と600 mg/kg投与群の雌で認められ,さらに600 mg/kg投与群では雌雄とも全例が腹臥位となった.投与後6時間の観察では上記の症状はいずれも回復していたが,投与翌日には600 mg/kg投与群の雄3例が死亡した.以上の結果から,毒性徴候に著しい性差はないと判断し,被験物質の最大耐量は400 mg/kgであったことから,高用量を 400 mg/kgに設定し,雄マウスを用いて小核本試験を実施することとした.すなわち,被験物質投与群は100,200および400 mg/kgの3用量群とし,陰性対照群および陽性対照群を加え,標本作製時期を投与後24および48時間として,各群5匹からなる9群を設けた.なお,陰性対照物質は被験物質の媒体である日局オリブ油を,陽性対照物質はシクロホスファミド(以下CPAと略す)をそれぞれ選択した.被験物質の投与経路は,経口投与を選択した.投与回数は1回とし,午前10時〜11時の間に注射筒およびマウス用胃管を用いて強制経口投与した.投与液量は,投与の直前に測定した体重をもとに,10 mL/kgとなるように個体別に算出した.CPA(Lot No.:108H0568,Sigma Chemical Company USA)は,日局生理食塩液(製造番号:7H92N,大塚製薬工場(株))に溶解して所定濃度(5 mg/mL)に調製後,すみやかに強制経口投与(10 mL/kg)した.陰性対照物質の日局オリブ油は,被験物質投与群と同一条件下で投与した.

4. 観察および検査

1) 症状観察

投与日は投与後約1時間にわたり継続的に生死および一般状態を観察し,その後は投与後約6時間に観察した.投与の翌日以降は,午前10時前後に観察した.

2) 標本の作製

小核の観察のための骨髄塗抹標本は,Schmidの方法2, 3)に従って作製した.すなわち,投与後,所定の標本作製時期に頸椎脱臼法にてマウスを致死させ,両側の大腿骨を摘出した.その後,大腿骨の骨端を切断して,骨髄細胞を0.6 mLの非働化したウシ胎児血清(Lot No.:1077012,Life Technologies Inc.)で洗い出し,約1200 rpmで5分間遠心分離後,沈渣をピペッティングして,細胞浮遊液の一部をスライドグラス上に塗抹(各個体につき3枚)した.それぞれの骨髄塗抹標本には試験計画番号,スライド番号およびコード化した番号を記入し,室温で自然乾燥させた.乾燥した標本は,メタノールで5分間固定後,標本観察時まで室温保存した.

3) 骨髄塗抹標本のアクリジンオレンジ(AO)螢光染色および小核の観察

骨髄塗抹標本のAO螢光染色は,Hayashiらの方法4)に従い,標本観察の直前に40 μg/mLのAO溶液を骨髄塗抹標本に滴下し,カバーグラスをかけて螢光顕微鏡下で観察した.骨髄塗抹標本は,各個体について2名の観察者により観察した.1匹あたり2000個の幼若赤血球を観察し,そのうち小核を有する幼若赤血球の数を記録した.また,1匹あたり1000個の赤血球(幼若赤血球および成熟赤血球)を観察して,赤血球中に占める幼若赤血球の比率を調べた.

4) 統計処理法および判定基準

(小核出現頻度)

陰性対照群と陽性対照群の小核出現頻度が,背景データのばらつきの範囲内(平均値 ± 3 × 標準偏差)にあるか否かを調べた.

小核出現頻度については,陰性対照群と被験物質投与群の間および陰性対照群と陽性対照群の間で,Fisherの正確確率検定法5)(片側検定)により有意差検定を行った.なお,検定にあたっては,多重性を考慮してBonferroniの補正6)を行った.また,小核出現頻度の用量(対数値)依存性について,Cochran-Armitageの傾向検定7)(片側検定)を行った.

(赤血球中に占める幼若赤血球の比率)

骨髄細胞の増殖抑制の指標としての幼若赤血球の比率について,まずBartlett検定5)により陽性対照群を除く各群の分散の一様性の検定を行った.その結果,いずれも等分散であったことからDunnett検定8)を用いて陰性対照群と各被験物質投与群との平均値の差の検定を行った.陰性対照群と陽性対照群との比較については,F検定5)により分散の一様性の検定を行い,等分散であったことからStudentのt検定5)を行った.

(判定)

被験物質が骨髄細胞において,染色体異常誘発作用または紡錘体形成阻害作用を示すか否かの判定は,統計解析の結果をもとに,用量反応性および陰性対照の背景データ,骨髄細胞増殖への影響等を参考にして総合的に行った.

結果

いずれの投与群においても,被験物質の投与に起因したと考えられる死亡例は観察されなかった.投与後1時間の一般状態の観察では,自発運動低下が400 mg/kg投与群の全例で認められたが,投与後6時間の観察では全例とも回復していた.投与翌日以降の観察では,自発運動低下が投与後約24時間に10例中4例,投与後約48時間に5例中2例で観察された.200 mg/kg以下の被験物質各投与群,陰性対照群および陽性対照群においては,一般状態の変化は観察されなかった.

小核出現頻度および赤血球中に占める幼若赤血球の比率をTable 1に示した.陰性対照群および陽性対照群の小核出現頻度は,いずれも背景データのばらつきの範囲内であったことから,本試験系の有効性が確認された.被験物質投与群の小核出現頻度は,いずれの標本作製時期においても陰性対照群との間に有意差は認められず,用量に依存して増加する傾向も認められなかった.一方,CPAを投与した陽性対照群では,0.1 %水準で有意な小核出現頻度の増加が確認された.

赤血球中に占める幼若赤血球の比率は,いずれの標本作製時期においても400 mg/kg投与群で低下し,投与後48時間に標本を作製した400 mg/kg投与群では有意差が認められた.200 mg/kg以下の被験物質投与群および陽性対照群においては,陰性対照群との間に有意差は認められなかった.

考察

1,1,2-トリクロロエタンの変異原性については,Ames試験9)やマウスの肝細胞を用いた不定期DNA合成試験10)において陰性の結果が報告されているが,ヒトのリンパ球を用いたin vitro小核試験およびコメットアッセイ11)では,陽性の結果が報告されている.本試験においては,400 mg/kg投与群において赤血球中に占める幼若赤血球の比率が低下し,被験物質の骨髄細胞に対する増殖抑制作用が示唆されたが,いずれの被験物質投与群においても小核出現頻度に変化はなかった.また,本被験物質の異性体である1,1,1-トリクロロエタンについては,マウスを用いた小核試験で,陰性の結果12)が報告されている.

以上の結果から,本試験条件下では,1,1,2-トリクロロエタンはマウスの骨髄細胞において染色体異常誘発作用あるいは紡錘体形成阻害作用を示さないが,400 mg/kgの用量で骨髄細胞に対する増殖抑制作用を示すと考えられた.

文献

1)K. L. White, et al., Drug. Chem. Toxicol., 8, 333(1985).
2)W. Schmid, Mutat. Res., 31, 9(1975).
3)W. Schmid, "Chemical Mutagens," Vol. 4, ed. by A. Hollaender, Plenum Press, N. Y. -London, 1976, pp. 76-78.
4)M. Hayashi, T. Sofuni, M. Jr. Ishidate, Mutat. Res., 120, 241(1983).
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6)B. H. Margolin, M. A. Resnick, J. Y. Rimpo, P. Archer, S. M. Galloway, A. D. Bloom, E. Zeiger, Environ. Mutagen., 8, 183(1986).
7)B. H. Margolin, K. J. Risko, "Evaluation of Short-Term Tests for Carcinogens," eds. by J. Ashby, et al., Cambridge Univ. Press, 1988, pp. 1.29-1.42.
8)C. W. Dunnet, J. Am. Statist. Assoc., 50, 1096(1955).
9)J. Ashby, R. W. Tennant, Mutat. Res., 257, 229(1991).
10)J. C. Mirsalis, et al., Environ. Mol. Mutagen., 14, 155(1989).
11)M. Tafazoli, M. Kirsch-Volders, Mutat. Res., 371, 185(1996).
12)E. Gocke, M. -T. King, K. Eckhardt, D. Wild, Mutat. Res., 90, 91(1981).

連絡先
試験責任者:原  巧
試験担当者:太田 亮,松本浩孝,関 剛幸,堀内伸二,稲田浩子,三枝克彦,安生孝子
(財)食品薬品安全センター秦野研究所
〒257-8523 神奈川県秦野市落合729-5
Tel 0463-82-4751Fax 0463-82-9627

Correspondence
Authors:Takumi Hara(Study director)
Ryo Ohta, Hirotaka Matsumoto, Takayuki Seki, Shinji Horiuchi, Hiroko Inada, Katsuhiko Saegusa, Takako Anjo
Hatano Research Institute, Food and Drug Safety Center
729-5 Ochiai, Hadano-shi, Kanagawa, 257-8523, Japan
Tel +81-463-82-4751Fax +81-463-82-9627