O,O'-ジエチルジチオリン酸の培養細胞に及ぼす細胞遺伝学的影響について,チャイニーズ・ハムスター培養細胞(CHL/IU)を用いて染色体異常試験を実施した.
細胞増殖抑制試験結果をもとに,短時間処理法S9 mix 非存在下では240 μg/mLを最高処理濃度とした19.8〜240 μg/mLの濃度範囲で8用量を,S9 mix 存在下では240 μg/mLを最高処理濃度とした28.2〜240 μg/mLの濃度範囲で7用量を設定した.S9 mix存在下および非存在下で6時間処理(18時間の回復時間)後,標本を作製し,検鏡することにより染色体異常誘発性を検討した.S9 mix 非存在下では82.3, 118, 168 μg/mL,S9 mix 存在下では118, 168, 240 μg/mLのそれぞれ3用量について顕微鏡観察を実施した.
その結果,-S9処理および+S9処理とも溶媒対照群と比較して,統計学的に有意な染色体異常の誘発が認められた.しかしながら,弱い陽性反応であったことから連続処理法24時間処理による試験を追加して実施した.175 μg/mLを最高処理濃度とした29.4〜175 μg/mLの濃度範囲で9用量を設定した.S9 mix非存在下における24時間連続処理後,標本を作製し,112, 140および175 μg/mLの3用量について顕微鏡観察を実施した.その結果,統計学的に有意な染色体異常の誘発が認められ,かつ,いずれの処理においても用量に依存した増加であった.
以上の結果より,本試験条件下ではO,O'-ジエチルジチオリン酸は,染色体異常を誘発する(陽性)と結論した.
哺乳類培養細胞を用いる染色体異常試験に広く使用されていることから,試験細胞株としてチャイニーズ・ハムスターの肺由来の線維芽細胞株(CHL/IU)を選択した.昭和59年11月15日に国立衛生試験所(現:国立医薬品食品衛生研究所)から分与を受け,ジメチルスルホキシド(DMSO:MERCK KGaA)を10 vol%添加した後,液体窒素中に保存した.試験に際しては凍結細胞を融解し3〜5日ごとに継代したものを使用した.なお,細胞増殖抑制試験では継代数11,染色体異常試験(短時間処理法)では同15,染色体異常試験(連続処理法)では同6の細胞を用いた.
Eagle-MEM液体培地(旭テクノグラス)に,非働化(56℃,30分)済み仔牛血清(Invitrogen)を最終濃度で10 vol%になるよう加えた後,試験に使用した.調製後の培養液は冷暗所(4℃)に保存した.
CO2インキュベーター(三洋電機バイオメディカ)を用い,CO2濃度5 %,37℃の条件で細胞を培養した.
製造後6ヵ月以内のキッコーマン製S9 mixを試験に使用した.S9 mix中のS9は誘導剤としてフェノバルビタールおよび5,6-ベンゾフラボンを投与したSprague- Dawley系雄ラットの肝臓から調製した.また,S9 mixの組成は松岡らの方法1)に従った.S9 mixの組成を以下に示す.
成分 | S9 mix 1 mL中の量 |
S9 | 0.3 mL |
MgCl2 | 5 μmol |
KCl | 33 μmol |
G-6-P | 5 μmol |
NADP | 4 μmol |
HEPES緩衝液(pH 7.2) | 4 μmol |
蒸留水 | 0.1 mL |
被験物質のO,O'-ジエチルジチオリン酸(ロット番号: TCQ2466)は純度95.1 %の暗灰褐色透明の液体で,DMSOに易溶である.和光純薬工業(静岡)から提供された被験物質を使用した.被験物質は,使用時まで冷蔵で保管した.試験終了後,被験物質提供元において残余被験物質を分析した結果,安定性に問題はなかった.
試験の都度,モレキュラーシーブを用いて脱水処理を行ったDMSOで被験物質を溶解し,調製原液とした.調製原液を使用溶媒を用いて順次所定濃度に希釈した後,速やかに処理を行った.
12ウエルの細胞培養用マルチプレートに細胞を播種し,培養3日後に被験物質液を処理した.短時間処理法ではS9 mix非存在下(-S9処理)あるいは存在下(+S9処理)で6時間処理した後,新鮮な培養液に交換してさらに18時間培養を続けた.連続処理法の場合,24時間連続して処理を実施した.
細胞を10 vol%中性緩衝ホルマリン液(和光純薬工業)で固定した後,0.1 w/v%クリスタル・バイオレット(関東化学)水溶液で10分間染色した.色素溶出液(30 vol%エタノール,1 vol%酢酸水溶液)を適量加え,5分間程度放置して色素を溶出した後,分光光度計(105-50型:日立製作所)を用いて580 nmでの吸光度を測定した.各用量群について溶媒対照群での吸光度に対する比,すなわち相対細胞増殖率を算出し,さらにプロビット法を用いて50 %細胞増殖抑制濃度を算出した.
その結果,細胞増殖を50 %抑制する濃度は,短時間処理法-S9処理で88.4 μg/mL,同+S9処理で117 μg/mL,連続処理法24時間処理で77.2 μg/mLと算出された(Fig. 1〜2).
被験物質処理開始時,すべての処理法において233 μg/mL以上の用量で白色粉末状等の析出が観察された.さらに,931 μg/mL以上で培養液のpH低下が認められた.被験物質処理終了時においても466 μg/mL以上の用量では白色粉末状等の析出が観察された.ただし,培養液のpHは中性域を示していた.
細胞増殖抑制試験結果をもとに,染色体異常試験では短時間処理法-S9処理および+S9処理とも240 μg/mLを最高処理濃度とし,以下それぞれ公比1.43で減じた8または7用量ならびに溶媒対照群を設定した.また,短時間処理法において弱い陽性反応が認められたことから,連続処理法24時間処理を実施し,175 μg/mLを最高処理濃度とし,以下公比1.25で減じた9用量および溶媒対照群を設定した.
なお,陽性対照として,短時間処理の場合,-S9処理でマイトマイシンC(MMC:協和醗酵工業)を0.1 μg/mL,+S9処理でシクロホスファミド(CP:塩野義製薬)を12.5 μg/mLの用量で,連続処理の場合MMCを0.05 μg/mLの用量で試験した.
直径60 mmのプレートを用い,細胞増殖抑制試験と同様に被験物質等の処理を行った.培養終了2時間前に,最終濃度で0.2 μg/mLとなるようコルセミド(Invitrogen)を添加した.トリプシン処理で細胞を剥離させ,遠心分離により細胞を回収した.75 mmol/L塩化カリウム水溶液で低張処理を行った後,固定液(メタノール3容:酢酸1容)で細胞を固定した.空気乾燥法で染色体標本を作製した後,1.2 vol%ギムザ染色液で12分間染色した.
各プレートあたり100個,すなわち用量当たり200個の分裂中期像を顕微鏡下で観察し,染色体の形態的変化としてギャップ(gap),染色分体切断(ctb),染色体切断(csb),染色分体交換(cte),染色体交換(cse)およびその他(oth)の構造異常に分類した.同時に,倍数性細胞の出現率を記録した.染色体の分析は日本環境変異原学会・哺乳動物試験分科会による分類法2)に従って実施した.
すべての標本をコード化した後,染色体分析を実施した.
ギャップを含めない場合(-gap)について染色体構造異常の出現頻度を表示した.
各試験群の構造異常を有する細胞あるいは倍数性細胞の出現頻度を,Fisherの直接確率計算法(有意水準0.05)を用いて検定した.また用量依存性については,Cochran
Armitageの傾向検定(有意水準0.05)を用いて検定した.溶媒対照群と比較し被験物質処理群において有意差が認められ,かつ,再現性あるいは用量に依存性が認められた場合に陽性と判定した.ただし,最終的な判定は試験条件下での生物的な妥当性も考慮して行った.
また,分裂中期像の20 %にいずれかの異常を誘発するのに必要な被験物質濃度であるD20値を最小二乗法により算出し,一定濃度(mg/mL)あたりの交換型異常(cte)出現数を示す比較値であるTR値を,染色分体交換の出現頻度(%)を被験物質濃度(mg/mL換算)で割ることにより算出した.
染色体標本作製時に各プレートの低張処理した細胞液を一定量採取し,ATP測定用試薬キット(ルシフェール250:キッコーマン)およびATPフォトメーター(ルミテスター C-100LU:キッコーマン)を用いて相対発光量(Relative Light Unit:RLU)を求めATP含量を測定した.陰性対照群におけるRLUに対する比(=相対細胞増殖率)を各用量群について求め,細胞増殖抑制度とした.
短時間処理法での試験結果をTable 1〜2に示した.O,O'-ジエチルジチオリン酸処理群の場合,染色体構造異常出現頻度は,-S9処理では82.3 μg/mLで3.5 %(p<0.05),118 μg/mLで5.0 %(p<0.05),168 μg/mLで8.0 %(p<0.05)を示した.+S9処理では118 μg/mLで2.5 %,168 μg/mLで6.5 %(p<0.05),240 μg/mLで7.0 %(p<0.05)を示し,用量依存性(p<0.05)も確認された.倍数性細胞の出現頻度については,-S9処理の168 μg/mLにおいて統計学的に有意な増加が認められたが,背景データによる基準値内であったことから陰性反応と判断した.また,-S9処理ならびに+S9処理とも試験用量に依存した相対細胞増殖率の減少が観察され,-S9処理では染色体異常評価群中の高用量である168 μg/mLでの相対細胞増殖率が22.8 %であった.最高用量の240 μg/mLでの相対細胞増殖率は3.1 %であった.+S9処理では染色体異常評価群中の高用量である240 μg/mLでの相対細胞増殖率は47.2 %であった.一方,S9 mix非存在下における陽性対照物質MMCで処理した細胞,およびS9 mix存在下における陽性対照物質CPで処理した細胞では染色体構造異常の顕著な誘発が認められた.
O,O'-ジエチルジチオリン酸における-S9処理および+S9処理での結果は,いずれも弱い陽性反応であったことから,連続処理法24時間処理による染色体異常試験を追加して実施し,結果をTable 3に示した.O,O'-ジエチルジチオリン酸処理群での染色体構造異常出現頻度は,112 μg/mLで2.5 %,140 μg/mLで4.5 %(p<0.05),175 μg/mLで9.0 %(p<0.05)を示し,用量依存性(p<0.05)も確認された.倍数性細胞の誘発傾向はいずれの用量においても観察されなかった.また,試験用量に依存した相対細胞増殖率の減少が観察され,染色体異常評価群中の高用量である175 μg/mLでの相対細胞増殖率は34.9 %であった.一方,陽性対照物質MMCで処理した細胞では染色体構造異常の顕著な誘発が認められた.
変異原性の強さに関する相対的比較値であるD20値の最小値は0.404(mg/mL),TR値の最大値は37.1(mg当たり)と算出された.なお,被験物質処理開始時,短時間処理法-S9処理,同+S9処理の240 μg/mLにおいてのみ白色粉末状の析出が観察された.被験物質処理終了時ではpHの変動,被験物質析出等の特筆すべき変化は,いずれの用量においても観察されなかった.
以上の試験結果から,本試験条件下においてO,O'-ジエチルジチオリン酸のチャイニーズ・ハムスター培養細胞に対する染色体異常誘発性に関し,陽性と判定した.
なお,本被験物質(O,O'-ジエチルジチオリン酸)について,遺伝毒性ならびに発がん性に関する報告はなかった.類縁体であるO,O-diethyl S-[2-(ethylthio)ethyl] esterについてCHL細胞を用いたin vitro小核ならびにマウスを用いた小核試験で陽性3)との報告があった.O,O-diethyl S-[(ethylthio)methyl] esterについてはCHO細胞を用いた染色体異常試験で陰性4),ラット小核試験で陽性5)との報告があった.また,diethyl dithiophosphate ammonium saltおよびdiethyl dithiophosphate potassium saltの遺伝毒性に関する報告はなかった.
1) | Matsuoka A, Hayashi M, Ishidate M Jr: Chromosomal aberration tests on 29 chemicals combined with S9 mix in vitro. Mutation Res, 66:277-290(1979). |
2) | 日本環境変異原学会・哺乳動物試験分科会(編):「化学物質による染色体異常アトラス」朝倉書店,東京(1988)pp. 31-35. |
3) | Ni Z, Li S, Liu Y, Tang Y, Pang D:Induction of micronucleus by organophosphorus pesticides both in vivo and in vitro. Hua Xi Yi Ke Da Xue Xue Bao, 24:82-86(1993). |
4) | Lin MF, Wu CL, Wang TC:Pesticide clastogenicity in Chinese hamster ovary cells. Mutation Res, 188:241-250(1987). |
5) | Grover IS, Malhi PK:Genotoxic effects of some organophosphorous pesticides. I. Induction of micronuclei in bone marrow cells in rat. Mutation Res, 155:131-134(1985). |
連絡先 | |||
試験責任者: | 中嶋 圓 | ||
試験担当者: | 永井美穂,仲村渠奈美子, 尾h伸也,嶋田佐和子, 菊池正憲,古屋有佳子, 鈴木ゆみ子,鈴木雅也 | ||
7食品農医薬品安全性評価センター | |||
〒437-1213 静岡県磐田郡福田町塩新田582-2 | |||
Tel 0538-58-1266 | Fax 0538-58-1393 |
Correspondence | |||
Authors: | Madoka Nakajima(Study director) Miho Nagai, Namiko Nakandakari, Shin-ya Ozaki, Sawako Shimada, Masanori Kikuchi, Yukako Furuya, Yumiko Suzuki, Masaya Suzuki | ||
Biosafety Research Center, Foods, Drugs and Pesticides(An-pyo Center) | |||
582-2 Shioshinden, Fukude-cho, Iwata-gun, Shizuoka, 437-1213, Japan | |||
Tel +81-538-58-1266 | Fax +81-538-58-1393 |